満天下別館

過去ログ44 2008/6/1 10:57

▼真鍋周平
滑走
昨日は書店で読み物として
「PLC制御」
「組み込み現場のCプログラミング」を買い

ブックオフで村上龍の「すべての男は消耗品である。」と
ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」を買った.

今日は昼から「いやし屋」でつけ麺を食べて
午後は簡単に体を動かした後に
「ひぐらしのなく頃に」を読むか
たまっている原稿をまとめようと思う.

昨日,彼方から電話がかかってきて
大学の後輩が名古屋大学との対校戦に勝ったことをきいた.
何人かOBも応援に行ってたようで飲み会は盛り上がったらしい.

1回生の後輩がデビュー戦で205を跳んだらしい.
私の大学デビュー戦の記録よりも高いではないか!

彼方は「浮気はしていないか?浮気はしてないか?」と
訊いてきた.

何かあったのだろうか?
6/1(日)10:57

▼真鍋周平
満点下記録樹立者の声 その2
私が満点下記録を出した2003年は大阪大学が七大学対抗戦で創部以来の初の優勝を果たした年だ.
当時はフィールド種目の絶頂期であった.棒高跳びの満点下記録を持つ細川先輩,走り幅跳び歴代2位の記録を持つ安積先輩,砲丸投げと円盤投げの満点下記録を持つ尾杉先輩,槍投げで歴代2位の記録を持つ上田君,そして高跳び歴代2位の記録を持つ私の弟がいた.これだけフィールド選手の充実していた年は他にないと思う.そんな賑やかな,そして恵まれた年に生まれた記録であったと思う.

当時の私の頭の中は陸上一色だったが,学生らしく勉強もちゃんとやった.
普段は好きな勉強ばかりやって,試験期間になれば単位を落とさない程度に他の勉強もやった.

空いた時間は漫画を読んだり本を読んだり,好きなアニメや映画を見たりして過ごした.
今日性のない作家の本を読み漁りや白黒映画を好んで多く観ていた.
陳腐な歌-「雨に唄えば」-を口ずさみながら自分の置かれた自由放任で頽廃的な学生生活のことを「憩い食堂」で考えてみたり,ウヰスキーをちびりながら時間潰しにドフトエフスキーを読み耽ってみたり,「甲必丹」で押井守と人工知能研究者の世界観を比較して笑ったり,夜が更けるまで同じサイコロゲームを何度も飽きずに遊んでみたりした.
時間と体力だけは有り余っていて,講義がないときは朝も夕方も大学で練習し,夜は主将の荻山,山倉,雄高選手の家に度々足を運び,ほとんど家には帰らずに遊び呆けていた.加藤登紀子の「時には昔の話を」を地で行くような生活だった思う.
人生にはそういう時期が誰にでもあるものだ.

今現在,私は某T自動車のラボで介護用ロボットを開発する仕事をしている.
大学で学んだ学問が世の中に出て役立つとはあまり考えていなかったが,ここでは学生の頃から考えていた人間の動作に対する物理的な考察が多いに役立っている.
ロボットの動作を考えることで人間が体を動かすことの奥深さを逆に再認識させられたりもする.
「体を動かすこと」とはどういうことなのか?ということを,理論的な,思想的な,健康的な,側面から深く考える機会が多くなった.

社会人になっても私は競技を続けている.昨年の記録は215で全日本実業団2番だった.
そして,社会人になって私の挑戦しなければならない競技の目標は学生時代から変わった.
仕事でもそうであるし,結婚して家庭ができればまた新たな目標が加わると思う.

現役部員諸君が挑まなければ目標(記録)は人それぞれ違うだろう.大学から競技を始める人もいると思う.いずれ私の記録を目標にしてそれ踏み越え更なる高みへ挑戦する選手も出てくるだろう.
現役部員諸君には七帝戦で再び優勝してくれること,誰か私の記録を抜いてくれることを期待している.

これからも,多くのものに挑戦していってほしい.
OBとして幅広い分野で卒業生が活躍してくれることを期待している.
高い目標に向かって邁進するアスリート精神とは引退しても変わらないものだと思う.
5/31(土)0:03

▼真鍋周平
満点下記録樹立者の声
私は学生時代,陸上選手として様々な目標に挑戦し続けてきた.

当時205だった満点下記録を最初に更新したのは1回生の七帝戦である.次に目標としていた日本選手権の参加標準記録214を突破したのは1回生の学年別だった.関西学生記録220を破ったのは2回生の七帝戦,高校生で超えられなかった日本高校記録222を超えたのは2回生の近畿国立大学対抗戦だった.

最終的に私は日本記録232を目標にして競技をしていた.
それはもはや「私個人の限界」というよりも,「人間の限界」への挑戦に近かったと思う.
跳躍は洗練されていたし,ほぼ完璧な跳躍ができていた.

満点下記録225を出したのはスーパー陸上2003横浜大会である.
9月にしては気温が低く,あまり恵まれたコンディションでは無かった.

220にバーが上がる頃には私とNieto,Aleksaner,Jacquesの4人だけになっていた.
NietoはアメリカNo.1の選手で内切りの曲線助走でダブルアーム,そして右踏切りの選手だ.
Aleksanerは年度別世界ランキング1位の選手で持ち記録が236だ.いかにも旧ソ連系の選手らしい角度のある美しいクリアランスの持ち主だった.
Jacquesは世界選手権を235で勝った直後の試合であり,長身を生かしたダイナミックな跳躍で周囲の観客を圧倒していた.彼とは世界ユース以来の対戦だった.

私は彼等と一緒に試合ができることが嬉しかった.
彼等と私の「環境」はかけ離れているかもしれないが,彼等も私と同じで何か「人間の限界」に近いものに挑戦しながら競技をしているように思えた.私はそうした選手と極めて高いレベルで争えることに喜びを感じていた.

練習試技は210と220の高さだった.AleksanerとJacquesの2人は220の練習試技を楽々跳んだ.
私はその日の優勝ラインは231を何本目に成功するかになるだろうと思っていた.
そう考えながら,なんだか自分にも跳べそうな気がしていた.

試合は228まで4人が残り,Nieto選手が混戦を抜け出し231で優勝した.
私とAleksaner,Jacquesの3人が225で並び無効試技数差で私が2位になった.
その試合で私は,限界の力を余すところなく発揮し,当時の世界最高選手と伍して戦った.
225を成功したとき,3万人の観衆に歓声と拍手で迎えられたとき私は興奮して涙が出そうになった.
それは今までの私の人生で一番素晴らしい瞬間であったように思う.
5/31(土)0:03

▼真鍋周平
無題
表題に「こめかみ」という字を使おうとしたが「かみ」という字を変換してくれなかった.

毎度のことながら貧弱なボキャブラリーにうんざりする.

>>

今日は部の飲み会でしこたま飲んだ.

昔書いた雑誌の投稿用のページを書こうと思う
5/31(土)0:00

▼真鍋周平
経過報告5
ようやく自分の身長が跳べるようになった.
ただ,立ち高跳びと三歩両足踏切りのクリアランス練習の記録は低いままだ.
関節の可動域は可なり回復したが強い力が生み出せる関節範囲はまだ限られている.

それに10数回跳躍をすることで足首を温めて慣らした状態でなければまともに踏み切れない.
特に跳躍練習を始めた直後の時間帯は助走も踏切りも安定せず170程度の高さを落とすこともある.
回復次第では200もすぐ跳べる気がするが,実践復帰はまだ遠いという印象だ.
それに前回の怪我も190までは順調に回復しているが200を跳ぶまでには時間がかかっている.

何か躊躇するような動作が入れば200以上の高さを跳ぶことは難しい.
日本選手権に間に合わせたいという思いはあるが来週の試合の結果が195に届かなければ欠場しようと考えている.
そこから順調に回復しても最初の高さを跳ぶのがやっとだろうと思うからだ.
下手な調整をして何を得るものがないくらいなら,これを機にまとまった練習をして新しい跳躍の可能性を模索したいと考えている.

考えようによってはこの怪我は大きなチャンスである.
悪い癖が抜け,普段は気にもならないような細かい小さな動作にまで「気付き」が促されている.
動かせなくなったからこそ「見えてくる」個々の動作の重要性と新しい可能性がある.
例えば振り上げ脚の使い方や足首の負担を減らすような踏切り方などがそうだ.
それ等はこれまでと違った力の使い方で跳ぶことの可能性を感じさせてくれる.
リハビリ目的もあって様々な助走や跳躍を試しているが多くの発見がある.

今注意すべきは足首を庇うような踏切り動作になることでハムストリングにストレスのかかる不自然な踏切りになってしまうことだろう.
足首を怪我するとサジタル面方向に力を使うことを意識するあまり,踏切り動作で本来は臀部にねじれるように作用する力が
直線的にハムストリングにストレスかけるために怪我を誘発しやすいのだと思う.
昔,肉離れを誘発してしまった原因はここにあると考えている.

バイウンディングを難無く行えるようになりできる動作も増えてきた.
基礎体力の回復もはかりたい.
5/28(水)23:35

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