お爺ちゃんの体験談
過去ログ20
2010/5/3 11:30
▼源蔵65歳 青森
義父との秘密Fアパートの管理人が加わり3人で楽しむこともあった。どこでどう知り合ったのか、義父と二人で出稼ぎにでるようになった時には、すでに親父(義父はアパートの管理人をこう呼んでいた)のアパートに間借りするのが、慣例になっていた。
「今日は飯を食いにこい」。
月に一度か二度、親父が声をかけてくるのが合図だった。アパートの管理人は義父より10歳ほども年上だったが、やはり淫乱な男であった。あれは私が40前後、義父が60代前半のことだったと思うが、アパートの管理人の知り合いが集まり、10人程で朝までやり続けたことがあった。別の男に肛門を犯されながら、義父はアパートの親父と口を吸いあっていた。やがて射精が近づくと、義父は顔に精液をかけてくれとせがんだ。アパートの親父と義父の顔めがけ、興奮しきった中年男達が雄たけびとともに次々と射精して行く。義父は
「あぁ、ぎで、ぎで。いっばい顔にがげで」
と叫びながら、口を大きくあけ舌をびらびらさせて精液を受けていた。それを見てがまんできなくなったのだろう。義父の肛門を攻めていた40代後半の男が
「あぁ、たまらん」
とうめきながら義父の体内の射精した。
それはなんとも卑猥で興奮をそそる光景だった。義父はうっとりとした表情を浮かべ、ペニスをキトキトに勃起させながら、顔中に放出された大量の精液をいつまでもなめ回していたが、休む暇などない。すぐに別の親父が義父の肛門にペニスを押し込み、激しいピストンを始めた。
朝までに、いったい何回射精したのだろう。一人が2回としても20回。しかし、一人2回で済むはずがなかった。義父も5〜6回は放出した。若かった私はそれ以上だっただろう。さすがにやり疲れ、全員が全裸のまま眠りについた頃には、白々と夜が明け始めていた。その時、部屋中には精液のすえた匂いが充満していたことだろう。
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▼源蔵65歳 青森
義父との秘密E私達二人は、義父の知り合いの親父(義父のセックス相手だった)が経営する安アパートを間借りし、単調な肉体労働に明け暮れた。銭湯で汚れた身体を流し、安食堂で簡単な夕食を済ませて四畳半の部屋に戻ると、義父は3日と置かず、ゆっくりと越中褌をはずし、全裸になってペニスをしごきながら私の布団に潜りこんできた。義父と一つとなり、義父の中に子種を思い切り放出する喜びは労働の意欲にさえなっていた。そして、裸のまま抱き合って朝まで眠るのだ。普通の夫婦でいう絆とは、こういうものなのかと思ったりもした。
しかし、所詮、男同士の性は多情である。義父とのセックスだけでは、私も義父もすぐに満足できなくなるのは必然だった。義父との行為を楽しみにしつつ、快楽を求めて、男を求めて、私も義父も、ときには二人そろって東京の陰の世界を暗躍した。
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▼源蔵65歳 青森
義父との秘密D当時の当地域の冬の交通事情を考えると、冬季の通勤など不可能であった。冬季、私達もふくめ、村人は東京や大阪、各地の温泉地やスキー場などに出稼ぎに出た。義父にとっても、娘が婿を取り、婿と同居するようになってからも、それは何ら変わるものではなかった。変わったのは、春から秋まで婿と一緒に田畑を耕し、営林署の日雇い仕事をし、冬になると婿と一緒に出稼ぎにでるようになったということだけだった。表向きはそうしなければ現金収入がなく、生活できないというやむ得ない事情があってのことであったが、真の目的は全く違うところにあった。そう、出稼ぎに出る村人とは決定的に異なる感情があったのだ。村人たちにとって、出稼ぎとは生活のためやむをを得ず家を離れることであり、寂しさに堪え、家族に思いを馳せる期間であった。まさに私と義父の表向きの理由そのものであった。しかし、私と義父にとって、出稼ぎとは男同士のセックスを思い切り満喫できる至福の半年間だった。休日のたびにホモサウナに入り浸り、ペニスが痛くなって、それ以上は射精できなくなるまで、淫乱に交合し続けた・・・。
そもそも出稼ぎに行くにしろ、わざわざ東京まで行かずとも、近くの温泉やスキー場で充分働けたのだ。しかし、私と義父はそうしなかった。
「賃金が安いし、スキー場やスキー宿は正月にも帰るごどができねぇ」
という口実のもと、男を求め初雪の声とともに意気揚々と大東京へと旅立った。
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▼源蔵65歳 青森
義父との秘密C人格者として村人の尊敬を集めていた義父の素顔。それは淫乱でセックスのことばかり考えている好色親父に過ぎなかった。普通の男以上に多情な、どこにでもいる多情なホモ。そして、そんな男を私は愛した。
私が婿に入った頃の当地方は今以上に不便な寒村だった。昭和50年代までの交通事情の悪さは、現在からは想像もつかない程で、毎年、12月から4月まで豪雪で交通は途絶した。あまりの多雪と雪崩の危険のため、半年近くの間、自動車の通れる道路が閉鎖されていたのである。つまり、外界との接触は不可能になるのが常だったのである。数年前の大雪の冬、道路が閉鎖され、ずいぶん長い間、集落が孤立状態になったとして、しばしば某地域(地名は忘れた)がテレビのニュースに取り上げられた。しかし、かつて、それは当地域にとっては日常であった。多くの村人が降りしきる雪を恨み、雪に埋もれ、春だけを心待ちにして息を潜めて暮らしていくだけの冬。しかし、私と義父にとって、冬は心待ちにする季節だった。なぜなら出稼ぎに都会に出て行く季節だったからである。
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▼源蔵65歳 青森
義父との秘密B特に義父は肛門を犯されながら、性器をしごかれるとたまらない快感を感じたらしい。普段は遅漏気味でなかなか射精しないくせに、その時ばかりは、先走りをダラダラと流し続け、ほんの数分で射精に至るのである。時には触りもしないずる剥けの亀頭から、一筋の精液が勢いよく弧を描き、胸を、特には義父自らの顔面を直撃したことさえあった。そして、精液を飛び散らせながら、
「えぐ、えぐ、白い子種がいっばい出でしまう」
そんな歓喜の声を私にしがみつき、私の耳元で呻くのである。そして私や、私以外の男は、そんな義父の射精にあわせて直腸の奥深くに思いのたけを放出するのだ。やがて、萎えたペニスをゆっくりと引き抜くのだが、そんな時、義父は呆然とした表情で肛門から精液をたれ流していた。しかし、それで満足する義父ではない。相手さえ変われば、一晩に何回でも射精し、相手を受け入れた。義父の話を信じれば、40代の後半、大阪の竹の屋で、一晩に12回射精したことがあるという。淫乱な義父のことである。男らしく男前で相手に不足のなかった義父である。知り合ったばかりの何人もの男を取っ替え引っ替えして遊んだのであろう。晩年、75歳をこえていた義父が、5人の男を相手に、一晩に4回も射精したことがあったから、12回というのもあながち嘘ではなかろう。もしかしたら、作治さんとセックスした可能性だってあるのである。
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