31 SDG
>>28:サンペイさん

よく読んでいただければお分かりいただけると思いますが、「尊重すべき」と言っているのであって、「絶対視せよ」とは言っておりません。
主観的事実とやらを絶対視せず、客観的事実を尊重する事で、社会と調和できるという事です。
「絶対でなければ信じない」という事であれば、青信号も渡れません。
「世間では間違っていると言われるかもしれないが、実は赤は進めなのだ!」という主観的事実を信じた人が他人を巻き込む交通事故を起こしたとして、「今は世間の情勢で自分が間違っているかのように言われているが、私の主張を繰り返し繰り返し世間に呼びかけ続ければ、何十年かしたら、赤が進めで、青が止まれになる日が来るかもしれない!」「悪いのは青信号で進んで来た人々なのかもしれない!私だって怪我をしたのだから、そうなったら私こそが被害者だ!」なんて言ってたら、事故に巻き込まれた人々はたまったものではありません。
青は進めである事は、確かに厳密に哲学的に追求していけば絶対の真理であるとは言いきれないかもしれませんが、みんなが青は進めであるという認識を共有する事で、社会は成り立っているのです。

客観的事実を信じる事が社会的信仰であれば、主観的事実とやらを信じる事は自己中心的信仰と言えるでしょう。
統一教会の場合は、教団中心的信仰です。「教団=社会」となってしまっている人にとっては、それを区別する事は難しいのかもしれません。

>一生目が不自由で、一切外界を見ないで死んだ人にとっての主観的事実を、
>あなたは単なる思い込みの絶対視だと言い切れますか?
>この人にいくら視覚で得られる外界の姿を説明しても、この人にとってそれは客観的事実ではありません。

なぜ目の不自由な方を引き合いに出すのか理解に苦しみます。

私が問題としているのは、実在しないものを「見た」と主張する人々です。
見えない事を自覚しておられる方々の問題ではありません。
目の不自由な方々は、しばしば耳で音や言葉を聞き、手でものを触り、イメージする能力が優れています。
聴覚や触覚などから得た客観的な情報を元に正しく構築されるものであれば、それは客観性のあるものと考えて良いでしょう。
誠実な他人や自然とのあらゆるコミニュケーションが完全に断たれない限り、たとえ一部の感覚器官に障害を負おうとも、客観性というものは、存在しうるのです。