15 SDG
>>14:サンペイさん

国語辞書を開いてみれば、多くの言葉が多義的であることがわかります。
そういった多義的な言葉を前提にした議論が出来ないのであれば、非常に深刻な事態です。
不明な点があれば、質問してください、その都度補足説明をさせていただきます。
ただし、始めから私の言葉尻をあげつらう事が目的で、理解するつもりが無いのであれば、話は別ですが。


>人が解釈してはじめて事実が認識されるのですから、事実も複数になります。

それは、解釈や認識が複数あるのであって、事実が複数あるのではありません。

例えば、ある統一教会員が、「エイトさんに痴漢行為をされた」と主張しています。
http://dp.tosp.co.jp/index.php?ocd=user&oid=5129972&page=4&tno=-1&eno=235&topFlag=&action=blog_view_entry&pno=1

統一教会は、信者さんに対して、信仰を性と結びつけて教育します。
それはちょうど、パブロフの犬に対して、鈴の音をゴハンと結び付けて教育するのと同じで、
これにより、信者さんは信仰を邪魔されると、性的な侵害を受けたような錯覚に陥る事があります。
信者さんが痴漢をされたように“解釈した”のは事実でしょう、また、精神的な被害を受けたのも事実でしょう。

一方で、エイトさんが痴漢をした“つもり”ではなかったというのも事実でしょう。

そういったそれぞれの本人の解釈とは別に、「客観的事実としての痴漢行為があったのかどうか?」
という事が非常に重要なのです。そしてその客観的事実をそれぞれが受け入れる事で、それぞれの解釈を修正し、認識を共有する事が出来るのです。いわゆる、“わかり合う”という状態です。

では、サンペイさんに、端的にお聞きします。
「客観的事実に裏付けられ、時間や空間を超越して、より多くの人によって共有される概念」
というものは、存在しないとお考えでしょうか?
その時、その人だけを納得させられれば、後になって矛盾が生じたり、人に話すと矛盾が生じたり、客観的な情報と照らし合わせると矛盾が生じたりしても良い。というお考えでしょうか?
それは結局“騙す”という行為そのものなのではないでしょうか?