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IRONMAN WALES 報告記

少し、アイアンマンの報告を。

前日、BIKE預託に行くと物凄い風&雨、しかしそこには「IRONMAN」という名の入った、自転車をすっぽり覆うビニール袋が全車分、準備されてある、さすがIRONMAN。
皆、愛車を慎重に袋で包んでいる、が突然
アナウンス、「結局はこの風でビニール袋は飛ばされますので、大事な愛車でしょうが袋はかけずにおいて行って下さい、この後、本部で全ての袋を外します。周囲に袋が飛び、迷惑をかけますので」という訳で
皆、濡れる愛車を眺めながら後ろ髪引かれる思いでトボトボ。

SWIM
なんと、SWIM会場が前日に変更!
これは想定内の出来事。(可能性については
本部が前日からアナウンス済み)
サーフィンが出来るほどの波、水温16℃!
沖合のうねりも凄い。しかし誰も何も言わないところを見ると、ヨーロッパの選手たちは、そんな環境には慣れっこらしい。
会場が変わったことで、BIKEラックまで
一キロほどRUNすることになった。RUNシューズを持ってきていない人もいるが、特に文句もない。当日はそこを裸足で走っている選手多数!
 皆、スタート前の体慣らしSWIMに出る。波、うねりが波板の比ではない。真崎海岸より凄い!沖に出るまで大波を乗り越えて出ていかなければならない。やっと沖合に出て少し泳ぎ、丘に戻ると、そこに大波来襲だー。20人ほどがのまれ、波打ち際でごろごろ。天も地もどちらがどちらだかわからないほど転がった。斯く言う私もそのうちの一人。波に弄ばれ砂まみれになった。
するとあちこちで声が「ゴーグルが無い!ゴーグルを探してくれー!」悲痛な叫び。
皆でコンタクトレンズを探すかのような
姿勢でゴーグル探し、も無駄と知り、本部にスペアーがあるかもしれない、と皆、本部へダッシュ。彼らはその後いったいどうしたのだろう。
今回、IRONMAN WALESが行われた街、WALES、TENBYという町についてひとこと。 この街、11世紀からの遺跡が残るイギリス有数の観光地です。街には当時の城壁が残っていて路地には小さな店が軒を並べ、いつも観光客で賑わっています。人口はたった22000。駅に降り立った時はこんな小さな街でIRONMANが出来るのか?と思ったほどです。駅は無人、券売機すらなく、駅前にタクシーすら停まっていません。水曜日入りした選手はせいぜい10人程度だったでしょうか、街は普段通りの佇まい。「その大きな箱には何が入ってるんだ」とBIKEの入った箱を指差して聞かれる始末。レースの事すら知らない人も多い。その夜、PUBでビールをあおる。案の定、東洋人は好奇の目に晒させる。まあ気にせずビールをグビグビ。700ml程度の生ビールが300円程度、安ッ!しかし、日に日に選手が街に入って来て活気が出てきた。選手同士は街で行き交うとお互いにっこり。

前々日のパスタパーティー。
食べ物は少々のサラダにパスタのみ。飲み物といえば一本のペット・ウォーターだけ、しょぼいぞ、IRONMAM! しかし1550人の選手全員が集合して、皆テンション全開、俄然やる気が出てきます。
 大会前日。天気はいつも通り、曇りのち雨、少々晴れ。イギリス南西部のその一帯は毎日、晴れ、曇り、雨が少しづつ日に三回ぐらい繰り返すのです。風もいつも通り海から陸に向かってかなり吹いています。明日の天気もまったく同様の予報です。  SWIM SESSIONという公式のSWIM練習会に参加。水温16℃!(釜石は普段22℃)顔、足が冷たくてひりひりする。波、うねりが尋常ではない。台風のそれに似ている。これで泳ぐわけ?この時点で、明日、会場がNORTH BEACHに変更される可能性が発表された。そしてその夜のそれは正式決定となった。
 1987年にトライアスロンという競技を始め、それに参加したという人が皆の前で紹介され、やんやの喝さいを浴びる。この辺はさすがIRONMAN。

号砲一発、1550人が一斉に大荒れの海に泳ぎ出した。と思ったが、なぜか皆、海に沿って北に走りだした!えーSWIMじゃないの?訳が分からないまま、私も彼らの後を追って走り出した。しかし、意外に速い。
どうやら、第一ブイまでの最短距離地点まで走り、そこから泳ごうという作戦らしい。分からないでもない・・・がIRONMANがこれでいいの?ッて感じ。しかしおかげで、スタートがバラけてバトルが緩和されたことは大いに歓迎。とはいっても第一ブイ付近では物凄い混雑、ブイを回り終えるまでしばし立ち泳ぎ。一番長い直線に入ると、明らかに潮流に逆らうSWIM。うねりの為、十回に一度は息継ぎが出来ず、油断できない。そこに、うねりがまともに耳を直撃し「キーーん」しばらく耳鳴りが収まらない。今度はそこにわき腹に一撃、誰かに見舞われ悶絶す、も泳ぎは止めず。1.9km泳いで一度、陸に上がり、観客の前を走って通過。そしてまた1.9kmの泳ぎに出る。3.8kmを1゜07'で泳ぎ(3.8kmあったかどうかは甚だ疑問)BIKEトランジッションへの1km RUNに出る。SWIM会場が変わった為の、予定にはなかったRUN。濡れた足を拭くこともなくシューズに足を入れ、走り出す。美しい旧市街地を1km程走り、トランジッションへ。
 SWIMを656位で上がって1km程走り、BIKEに乗り換えスタートするまでのトランジッションに14'24(635位)かかる。速い人は6'00で終えていた。BIKEになってからは快調に飛ばす。途中、パンクやメカトラブルのBIKEが目立つ。ある人はBIKEコースに出た瞬間にパンク修理している人までいる。日頃のケアーが出るのだろうか。私はホテルでしっかりディレイラーを調整していたので変速もすこぶる快適。しかし、コースの厳しさには驚かされた。二日前にコースの下見を兼ねて30km程走った時に嫌な予感がしていたのだが、その坂には辟易させられた。小さな登り下りが途切れることなく規則正しく続く。雨も混じってきて、気を緩める時間がなかなかない。何しろ登っているか下っているかのどちらかである。そしてその道路の幅は3mほどしかないところが多い。そこを下っている時のスピード感といったらない。勿論、当日交通規制がされていて、対向車が来ることが無いことは分かっていたものの、下りで何かトラぶったら命にかかわる怪我になるに違いない。そしてあろうことか16%という登りが二度もやってきたのである。日本の公道で16%などといった道があるだろうか?ということは16%程のくだりがあるということ。3m程しかない幅の道で最高速は56.5km/hを記録、怖いのなんのって・・。そんなコースだから至る所に女の人が立っていて「SLOW DOWN!」と叫んでその先にカーブがあることを的確に教えてくれる。が、ある地点で女の人が道の左から急に出てきて右に渡った瞬間に「SLOW DOWN!」と叫んだが、時、既に遅し。私は曲がり切れず、そのままほぼ直進。藪の中に時速30km/h程で突っ込んだ。「ばかやろう!」とその女の子に大声で叫びたいところだったが、必死で我慢。女の子も自分の指示が遅かった為に引き起こしてしまった事故であることが明らかである為にひどく申し訳なさそうな表情である。藪の中からやっとのことで自分の身とBIKEを引っぱり出し、コースへ戻るが、サドルの後ろにつけているボトルゲージが壊れてしまっていて、ボトルが容易にはいらない。チクショウ!まあ、かすり傷程度で済んだので不幸中の幸いということで諦める。1分ほどのロスだ。
 快調に飛ばしていたBIKEであったが、75km地点で冷静に考えてみた。このペースで180km走り切れるだろうか?否。そんなことをしたらRUNの足がないではないか。そこで思い切って、1時間程休憩することにした。それこそが国道106号線で培った技。さっそく補給をしながら軽くBIKEを走らせる。何しろどこかで補給しなければならないはずなのに、登り下りが激しく、そのタイミングを測りかねてたのだ。路面も小さな凹凸の連続でひじの辺りが痺れてきた。本番だから走れるコースで、練習ではご免こうむりたいコースだ。100km過ぎ辺りから徐々にペースを戻す。その辺りでは皆がほぼ同じペース、自然にパックが形成されている。従って、追い越しても追い越されてもさっきと同じ人。私はベルギー人の女性とスイス人の女性と抜きつ抜かれつを繰り返しながら走った。が、突然、私を追い抜いた新顔。するとそこにオートバイのマーシャルがヌッと現れたかと思うと、その男にレッドカードをいきなり突き出した。どうやら、我々を風よけに使っていたらしい。残り30kmという時点で一発レッドは気の毒だが止むを得まい。その男、何やら必死にマーシャルに抗議していたが聞きいれてもらえるはずもなく、オートバイはブーンと行ってしまった。その男それでもめげずにBIKEを漕いでいた。半年間の練習の成果を精算することなく、記録なしで終わってしまうなんて気の毒だ。時折、思い出したように降る雨にもめげず180kmを6゜41'10"でFINISH(Ave25.6km/h)、BIKEパートは全体の406位。SWIMから250番順位をあげていた。宮古島ではBIKEパートは全体の100位程度でいけることを考えるとやはりヨーロッパはレベルが違う。ちょっと足を使いすぎた感がある。RUNが大いに心配だ。
 BIKEからRUNへのトランジッションは7'33"(659位)まあ小用をしたので致し方ない。結果、レース中に私は一度も小用の為、立ち止まることがなかった。実はワタクシ、レースの前日まで下痢が続いていた。食生活の激変が原因なのは明らかだった。日本を出て既に6日、その間一度も飯粒を口にする機会がなかった。米飯で過ごしてきた長い人生、胃も腸も米を消化するために働いてきていたはずなのだが、いきなりサンドウィッチの生活が始まり、面喰ったに違いない。世界中どこに行ってもあると確信していた頼みの中華料理店がそこTENBYの街にはなかったのが誤算だった。何とかなるだろうと高をくくっていたが体は正直だったという訳だ。そんな時スーパーマーケットの冷蔵庫の中に寿司を見つけた時には狂喜し乱舞した。「安心ください、生魚は入っていません」と注意書きされたその寿司をふたパック買い込み、ホテルで食べた。パサパサ、ボロボロの飯粒ではあったがどうだろう、翌朝の排泄物の凛々しい姿。予想していた事とはいいながらこれで、元気百倍、これで思い切ってレースできるというもの。このままの体調だと、レース中にWALESの大地に排泄をも辞さない状況、相当のタイムロスを覚悟していた。ティッシュ持参のレースになると思っていただけに、元気千倍!海外のレース、やはりそういった事態も起こりうる訳で、少し楽観的過ぎたと自ら猛省した次第。
 RUN。BIKEでの頑張り過ぎが響きそうだ。5時間を覚悟しなければならないかもしれない。ストライドを小さく、ピッチで走る作戦に変えた。沿道の応援が凄い。
 RUNは10kの4周回コース。天気は相変わらず雨か曇り、イギリス南西部特有の天気だ。1周目手探り状態というか足探り状態で走る。途中キロ(マイル)表示というものがなく、自分のペースが一切分からない。しかしまあ、いつのも練習よりもかなり遅いと考えると6'00"/km程度だろう。キープできるところまでこのペースを保つことが出来ればまあ、それなりの記録で終えられる。約8km〜9km地点で古い城壁の内側を走るコースがあった。あろうことか25%はあると思われる登り!迷わず歩いた。その直後には階段!その辺りはコースも石畳みで走りにくいことといったらない。1周終えるごとに腕に鮮やかな色の腕輪を渡され、それが何周回終えたかという印になる。エイドは10kmの中に4ヶ所。物資も種類も豊富。おばさんに「このビスケットには塩分が多く入っているから、絶対にいいわよ」といわれひとくち食べてみると、なるほど塩っけが心地よい。1周回終えて、軽く100人には抜かれた。しかし慌てず騒がず自分のレースを続ける。小さいストライドでピッチを小気味よく刻み、リズムを崩さないように心がける。過去、2度走ったロングのトライスロンでは必ず30km過ぎで撃沈、その後は死ぬ思いで走ることになった。
 イギリスらしいエピソードをひとつ。夕暮れが迫り気温も明らかに低くなり出したエイドでのことだ。いきなり、「HOT TEA!」を連呼するボランティアの人達が出現したのだった。それって紅茶?うわー、イギリスだ!冷えはじめた体に温かい飲み物を入れるのは道理には合っているのだろうが、何か怖い気がする。カフェインが体にどう作用するかわからない。
 (今日は案外いけるかもしれない)とその辺りで思っていた。やはり入りをゆっくりしたのが良かったのかも・・・。しかし油断は禁物、それはいつも突然やってくるのだから。
20km程走った辺りでも体に異変はなく順調。ペースも落ちない。30kmを過ぎて腕に三本の輪が巻かれ、残り1周を示す。何とかなりそうだ。最周回は全てのエイドを無視して飛ばす。残り5kmの辺りでもまだ大丈夫。ラストスパートだー!12時間競技してラストスパートできる自分にちょっとびっくり。今までにない経験だ。城壁をくぐると最後の腕輪「白」が腕に巻かれ、今までは右折していたところを、初めて左折。帰ってきた事を実感する。その辺りから、沿道には人垣が何重にも出来ていて物凄い声援。角を右折すると100m先にゴールゲートが見えていた。まだラストスパートが効く!道幅は3m程しかなく、その両側には何百人もの人。気が引けるほどの大声援。宮古島での大会などは応援してくれた親近者等と仲良くゴールする微笑ましいシーンがあるが、IRONMANはそれを認めない。「君の為にあるゴールだ」って訳だ。それにしてもそのゴールに飛び込むのは勇気が必要なほど完璧に整えられ、歓喜、狂喜が渦巻く舞台に仕上がっていて怖いほど。物凄い声援でアナウンスの声も聞きとれないなかゴール!
 ゴールタイムは12゜31'23"(449位) RUNは4゜21'09"(571位)。
 いやあ、あっという間に終わっちゃったよ、というのが偽らざる心境。これホント。六か月練習してきた成果を12時間に凝縮させるのはもったいない。もう少し楽しみたかったというのが本音です。
 翌朝、9:00amほとんどすべての選手たちがロールダウンパーティーに出席していたのには驚いた。さすが、IRONMAN達だ。妙に感心。
 ロールダウンパーティー、これが愉快だ!IRONMANだからあるイベントで、翌年のIRONMAN世界選手権(ハワイ)の出場権を決めるパーティーで、五歳区切りの年齢別で割り当てられた出場枠(1〜3)の選手をそこで決定する。そこWALESの大会では出場選手層の厚い30〜50歳代には3人の枠が割り当てられているが、20歳以下とか60歳以上の枠にはたった1人の出場しか認められていない。前日出場した1550人の中から2012年の10月のHAWAII IRONMANに出られる人は僅か50人。決められた枠内の順位に入った人は無条件でハワイ切符を手に入れられる。もっとも、その場で$800の現金を支払わなければならないのだが。ところが、来年のハワイには行けないとか、そのロールダウンパーティーに参加していないとか、もう既に他の大会でその権利を有している者などがいる場合には、次点の選手がハワイの権利をもらうことが出来る。年齢別順に上位の選手が壇上に呼ばれ、紹介され、ハワイ行き決定の印にハワイのレイを首からぶら下げられ、場内の1500人の人々から羨望の眼差しで見られる栄誉を賜れる。しかし、「ミスター○○、いませんか?いませんね?では次点の選手にハワイの切符がわたります」となると、もしかすると自分がそれに該当するかもしれないと思っている人達は気が気ではない。「発表します。次点の○○さん、あなたがハワイの切符を手に入れます!」名を呼ばれた人は奇声をあげ、小躍りしながら壇上へと走ってくる。その緊張感といったらありません。それに該当しない私でさえ、ワクワクするのです。$800準備していなかった人は慌てて、友人から米ドルをかき集める始末。しかしそれも微笑ましい姿です。そのロールダウンパーティーでまさにロールダウンの末にハワイの切符を手に入れた195cmはあろうかという55歳のオーストラリア人と話した。「これで10回目のハワイだ。2006年に行って以来、レースから離れていたんだ。5年のブランクの末にハワイにいけることになって嬉しいよ」。10回もハワイに出ている人もいるんです。しかし、その結果を見て、ひとつだけ確実の分かったことがある。それは、私が10年後も今年と同じ競技レベルを維持出来ていれば、ハワイを取れるという事実だ。
 後日談をせねばなるまい。
 レースが終わりWALES州の州都、CARDIFFへ移動した。そこで二泊し土産を買ったり、飲んだり、散策したりしてレースの余韻を楽しんだ。ホテルも豪勢なホテルで旅の宿にはもったいない部屋だった。いよいよイギリスとお別れの日、空港へ行って「予約のイトウヒロシです」と名乗ると、コンピューターで確認してくれた。「ミスター、イトウ、あなたの名前がありませんが・・」というので、「そんなはずはないですよ、もう一度探してみてください」と念押し。「やはりないですねえ、予約のその紙を見せて下さい」の言葉に手に持っていたe-ticketsを手渡す。すると「ミスター、イトウ、あなたは昨日乗るはずだった人じゃないですか?」「えー、まさか」といいながら手戻されたその紙をよく見ると、なるほど、昨日の日付だ。やっちまった!と思いながら一日遅れだけれど、この便に乗せてくれないか?と頼んだが、このチケットを発行した会社と話をしなければまかりならんといわれ、その便に乗るのを諦めた。「6時間後の便に乗れるように、東京の旅行会社に電話してみる」といわれたが、日本は夜中、電話に出るはずもない。「出ませんねえ」当たり前だ。実は、日本に帰り次第、店にはライブの仕事が入っていた。それに穴をあけるわけにはいかない。ふと、その旅行会社の支店がロンドンにあることを思い出して、早速ロンドン市内に出かけた。「お宅の東京支店で買ったチケットなんですが、搭乗日を1日間違えまして・・・」と情けない話をした。「普通はその飛行機会社が、まあいいでしょうと次の便に乗せてくれるものなのですがねえ」。「事情がありまして、なるべく早く日本に帰らないと行けないんです」。「となると、新しくチケットを購入するということになりますが、よろしいですか?」「止むを得ません、何とか今日中の便に乗れるよう手配願います」。「\87000で今日中に乗られる便がありました」。「そ・そ・それに乗ります!」夜、東京に辿り着いても盛岡に帰る手だてはなかった。翌、早朝、一番列車で盛岡経由宮古到着。ライブ出演者の集合時間の3時間前に到着、事なきを得た。準備をしてリハーサル、本番。本番中に恐ろしい眠気に襲われ、少し寝てしまった。すると「あれっ、BASSの音が出ません!」ひえーっ。

以上、旅の顛末記でした。